ENO CAREER 就活関連の本、メディア

就活の渦の中にいると見えなくなりがちだが、就活に対するいろいろな考え方を知り、吟味し、時として行動に移すことはとても大切なことである。

六人の嘘つきな大学生

「… 面接官をやる上でのコツと、相手の本質を一瞬で見抜くテクニックでしたね。これはもうね、本当に一言で言い表せますよ。
そんなものはない。これ尽きますね。
相手の本質を見抜くなんてね、保証しますけど、絶対に、百パーセント、不可能です。できると思うことそれ自体が傲慢なんですよ。…」

内田樹の研究室

「就活なんか、するな。卒業するまでは大学生として大学での活動に全力を尽くし、卒業してから、その先のことは考えなさい」というのが私の年来の主張である。 今していることをおざなりにして「ここではない場所で、あなたではない他の人たちとする仕事」に前のめりになっているような人間をあなたは重用する気になるか。 私はならない。 そんな人間はどこにいっても使い物にならないということを経験的に知っているからである。
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母親の直観は「いまの就活には何か人間の生きる力を損なうものが含まれている」ということを理解しているのだと思う。
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いまの就活は、とにかく狭い市場に学生を押し込もうとする。当然、買い手市場になり、採用する企業はわずかなポストに群がる求職者たちの中から、能力が高く賃金の安い労働者をよりどりみどりで選べる。『キミの代わりはいくらでもいる』という言葉を採用する側が言える。 これが一番効くんです。
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就活は、能力が高くて安い賃金で働く若年労働者を大量に備給して欲しい経済界の要請により、経済産業省や文部科学省と就職情報産業が共謀して作り出した仕組みです。 大量の学生たちを希少な就職機会に押し込むから、倍率ははね上がる。何十社も採用試験に落ち続けた学生たちは自尊感情を損なわれ、自己評価が下がり、最後は『どんな条件でも働きます』と採用側にすがりつくようになる。
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他者に呼ばれること、calling には『天職』という意味もあります。自分のすべき仕事は自分でみつけるのではありません。仕事の方が呼びに来るのです。
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「就活なんか、するな。卒業するまでは大学生として大学での活動に全力を尽くし、卒業してから、その先のことは考えなさい」というのが私の年来の主張である。 今していることをおざなりにして「ここではない場所で、あなたではない他の人たちとする仕事」に前のめりになっているような人間をあなたは重用する気になるか。 私はならない。 そんな人間はどこにいっても使い物にならないということを経験的に知っているからである。

母親の直観は「いまの就活には何か人間の生きる力を損なうものが含まれている」ということを理解しているのだと思う。

内田樹の研究室 「就活についてのインタビュー」

しょぼい生活革命 (内田樹xえらいてんちょう)

でも、そういうメタファーで教育が語られるようになったのは、単に「工場で工業製品を製造する」ということが産業の一般的なかたちになったからなんです。支配的な産業が農業から工業に遷移したので、それに合わせて、教育も「そういうものであらなければならない」と思い込んだというだけのことなんです。 その前の時代、僕が初等中等教育を受けているころは、学校教育は農業のメタファーで語られていました。種子を蒔き、肥料や水をやって、あとは太陽と土壌に任せておくと、収穫期になると「何か」が採れる。本質的に農産物は自然の恵みであって、人間が100パーセント工程管理することなんかできない。実際に教師も親もそう考えていた。でも、それは単に1950年代までは、日本人の50パーセントが農業従事者だったから、自分たちがふだんやっている産業形態のイメージをそのまま学校教育に当てはめたというだけのことなんです。そういうものなんです。 学校教育に僕たちが当てはめるイメージというのは、その少し前の時代に支配的だった産業構造を惰性的に模写したものに過ぎないんです。「工場での工業製品を製造する」というのは第二次産業が支配的な業態だった前期産業社会に固有のメタファーです。「教育の質管理」とか「PDCAサイクルを回す」とか「シラバスによる工程管理」とか、そういうのは全部「工場でものを作る」ための作業なんです。実際にはもうそんな時代はとっくに終わっているのに、人々はまだそんな時代遅れのメタファーを使って、学校教育を論じている。政治家も、教育官僚も、ジャーナリストもその点では同類です。 子どもたちを仕様書通りに育てなければいけない、工程の品質管理でひっかかって欠陥品としてはじかれるようなことがあってはいけないというふうにみんな怖がってますけれど、その恐怖そのものが前期産業社会の製造工程を人間に適用しているから起きることなんです。どうして子どもを誰かが書いた仕様書通りに育てなくちゃいけないんですか。子どもたちはみんな違っているし、みんな複雑なんですから、複雑なまま育てればいいじゃないですか。「私はこれこれこういう人間ですと自己規定して、それを言葉にしてずっと、維持してゆく」というアイデンティティー圧力というのは、工業製品に固有のものなんです。缶詰や乾電池だったら、規格化しないと使えない。だから、つよい同質化圧が学校教育で働く。すべての製品は初期設定から逸脱することを禁じられている。一度仕様書に組成や性能や使途を定められた製品は、途中で仕様を変更することが許されない。いまの日本社会では、その「仕様変更の禁止」のことを「アイデンティティー」と呼んでいるんです。そんなものを後生大事に抱えてどうしようっていうんですか。 どんどん変わっていいんです。いくら変わっても、変わらないものがある。どんなに次々と違うことをしていても、何か「指紋のようなもの」は残る。必ず残る。それは自分で構築するものじゃないし、探しに行くものでもない。自分にはどうしようもない、唯一無二性の徴なんです。探し出すものでも、自作するものでもないし、抑圧しようとして抑圧できるものでもない。 もし、現代において支配的な産業構造のメタファーを適用するとしたら、「離散的なネットワークの中で、さまざまなアクターが自由に出会うことでそのつど一回的に価値物が創造される」というイメージになるはずなんです。実際にそうなんですから。だから、教育も遠からず、工業製品ではなく、機能とか情報とか生命力とか、そういう「かたちのないもの」を原イメージとして組織化されるようになります。これまでもそうだったんだから、これからもそうなるに決まっている。そういう時代に前時代的なイメージを押し付けているから、学校教育が機能不全に陥るのは当然なんです。 だとしたら、これからの教育は学校で斉一的に教育されるのではなく、むしろ自己教育というものになると思います。自分のための教育環境そのものを自分で手作りして、自己教育する。そういうかたちのものになると思います。必ず、なる。 その場合の自己教育の目標は一言で言えば、複雑化ということです。教育環境を選ぶ場合に、子どもたちは「自分がそのプロセスを経由することで、どれだけ複雑になれるか」、それを問う。生物の進化というのは複雑化ということですから。単細胞が分裂して、二つになり、四つになり、複雑な機能を備えた生物になる。個人の成熟もそれと同じことだと僕は思います。成熟というのは複雑化ということなんです。どんどん「わけのわからないもの」「一筋縄ではゆかないもの」になってゆくことが成熟なんです。 僕自身だんだん加齢してきてわかったのは、年をとると人間はだんだん複雑になるということでした。だって、僕の中には、幼児期の自分もいるし、少年期の自分もいるし、中年の自分もいるし、定年を迎えた60歳の自分もいるし、古希を迎えてどうやって死のうか考えている自分もいる。その全員が僕の中にいる。その一人一人が間違いなく僕自身なわけです。だから、複雑なキャラクターにならざるを得ない。成熟するとはそういうことだと思います。 いまのこの社会の犯している最大の誤謬は「単純であるのはいいことだ」という信憑です。どんな場合でも、同じように考え、同じようなことを言い、同じようにふるまう首尾一貫したアイデンティティーを持った人間でなければならないという強い自己同一化圧がかけられている。就活では「自己アピール」しろというようなことを言われるらしいけれど、僕はそういうことを聞くと寒気がしてくるんです。どうして「自分はこれこれこういう人間です」なんてことを言わせるんです。そんな自己規定は、口に出した瞬間に「呪い」として機能して、自己を呪縛することにしかならないんですから。若い人にそんなことをいわせちゃいけない。「あなたは一言で言ってどういう人間ですか?」なんて愚かしい質問はしないで欲しい。「あなたの長所はどこですか?」なんて、知るかよ、バカ野郎です。

龍言飛語(村上龍)

だいたい豊かな人というのは、自分を他人と比べたりしない。他人と比べる人には満足はあり得ないんだから。上を見たらきりがないということじゃないよ。それは妥協をしろということだろ。妥協して下を見て満足することと、気にしないというのとは違う。要するに、上を見たり、下を見たりしない。